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清渓寺銅鐘および木版

清渓寺の銅鐘は、宝物第11-7号であり朝鮮粛宗27年(1701)に製作され、清渓寺の極楽寶殿と三聖閣の正面にある鐘閣の中にある。 鐘のてっぺんは水平に平べったくなく、若干丸みを帯びており、その真ん中にはお互い反対方向を向いてからだが巻きついている双竜の龍淚が突き出している。ここに通して鐘をぶら下げる。 肩の部分を囲んでいる帯(肩帶)には連続した縞を刻んで飾り、一番下の鐘口の周りを飾っている帯(口帶)には宝相華紋が連続して刻まれている。
鐘の肩部位の周りには正方向に近い4ヶの独立した乳郭があり、その中にそれぞれ9ヶずつの乳頭を刻んだ。乳郭の帯と乳頭の花模様子房だけが多少突起して表現された。 乳郭と乳郭の間にはそれぞれ一つずつの菩薩立像を刻み入れ、鐘の中腰部分には鐘を囲んで二本の平行線が出っ張っている。 平行線の真下には「銘文は康熙40年(1701)辛未4月に鋳成し、公州、清渓寺に保管されて大鐘の重さは7百斤」と刻まれている。 この銘文では清渓山を青龍山とし、清の字に青の字を使っている。
清渓寺で所蔵している仏教経板は木版で京畿道指定有形文化財135号に指定されており、経板数は18部466板から構成されている。

位 置 : 義王市清渓洞11

臨瀛大君墓および霊廟

義王市内蓀洞山154-1にある世宗大王の四番目の王子である臨瀛大君の墓および霊廟は、陵案村の後方の帽洛山中腹に位置している。 墓地は3段からなっており、上段には封墳と碑石があり、封墳は周囲1,650cm、高さが210cmと大型である。 封墳周辺の護石は1981年に新しく築造したもので東西南北の隅に竹、花、鳥などの紋が刻まれている。 封墳の東方には高さ200cm、幅50cmの碑石があり、前面に「朝鮮国王子臨瀛大君貞簡公之墓」、裏面には「開国五百三十三年閼逢困敦病月日重建辛坐」と刻まれている。
中段には床石、望柱石2ヶ、長明などがある。 本来の床石はなくなってしまい、1981年に新しく作られた。この床石は140×90×45cmで碑石は幅43cm、高さ36cm、中間に門の取っ手もようが浮き彫りにされている。 粛宗の時に建てられたと言われる長明灯は四方に4つの穴があけられている。 下段には東西の両側に高さ250cmの文臣石人があり顔が彫られているが、目鼻立ちがはっきりして両手を合わせて握っているホールも鮮明である。臨瀛大君の神主(位牌)を収めた霊廟は墓地から東に約200m離れたところにある。 本来霊廟は村に位置していたが、約180年前に現在の位置に移したといわれる。 祭事は陰暦の正月21日昼間の12時に行い、全国からたくさんの子孫たちが参加するという。 霊廟は大きくはないが建物の仕組みや全体的な均衡がよく整っている。 京畿道は2000年4月17日、文化財資料98号として指定した。

位 置 : 義王市内蓀洞 山154-1

金楺先生

金楺先生の影像-儉齋金楺(キム・ユ)先生の影像は、京畿道指定有形文化財第117号に指定されている。 金楺は朝鮮粛宗の時の文官で、字は士直、号は儉齋、諡号は文敬、本貫は清風である。 学問に造詣が深く、師匠であった南溪朴世采が後継者として指定し、尤庵宋時烈も非常に大事に考えていたほどである。 1674年南溪と尤庵が処罰されると、試験をあきらめて一時利川に隠居した後、粛宗の時代に司馬試を経て文科に及第した。その後<東国輿地勝覧>を増補した。三司・副提学・吏曹參判を経て、 大提学 に達した。 文章にたけており学問に対する研究が深く、多くの著書を残した人物である。
この肖像は堂々とした風貌に立ちこめたような白髪がさらに威風を高くし、右側の上段に「儉齋金楺先生画像」と墨書されており、その下に小さい文字で64才時事示と記録されている。影像の姿は椅子に座っている全身像で、手を合わせた左向きの姿勢だ。 儉齋金楺先生影像は清風金氏判書公派宋会に保管されていたが2002.1.30より景畿道博物館で委託管理している。

位 置 : 義王市旺谷洞40 (清風金氏宗中)

Anja Tomb

安子廟-義王市月岩洞にある安子廟は安珦の神位(位牌)を収める霊廟で、黄海道延白郡化城面松川里にあったものを1950年の朝鮮戦争によりソウル市麻浦区倉前洞に移し、1975年現在の位置に移ってきた。廟堂の全体面積は約5,000㎡で、入口に「安子廟」という碑石があり大門を開いて入ると八角屋根の内部全体を赤い丹青をほどこし、3間の韓国式家屋が雄壮に持ちこたえている。 廟堂の中間軒の下には「安子廟」という表札板が掛かっているが、この表札板は孔子の子孫である孔德成が書いたものと伝えられている。

安珦は高麗時代の名臣・学者で、号は晦軒、諡号は文成で興州出身だ。 忠烈王12年(1286)に征東行省の左右司郎中と、高麗儒学提挙になった。この年、王に従って円の国の燕京に行き、初めて<朱子全書>を見て自ら本を書き写し、孔子と朱子の画像を描いて国に戻って来た後、朱子学を研究した。 留学の振興のために奨学基金として6品以上は各々銀1匁ずつ、7品以下は布を収めさせてこれを養賢庫に帰属させ、その利殖として学校を運営する一方、博士金文鼎などを中国に送って、孔子とその弟子たちを訪ね、祭器・楽器・経書などを求めてくるようにするなど、高麗末期の留学振興に大きな業績を残した。 我が国で一番最初に朱子学を受け入れた最初の朱子学徒と見られ、亡くなって12年目となる忠肅王5年(1318)には、彼の功績を記念するために王が彼の肖像を描くようにさせた。安子廟では宗親会の主管で陰暦9月12日に法事を行うが、全国から約500 ~ 600人が参加するという。 市では非指定文化財として管理している。

位 置 : 月岩洞 425

鄭寅燮童謡碑

義王市鶴儀洞天主教公園墓地の上側にある鄭寅燮の歌碑は、1983年11月20日、色一会がたてたもので、墓碑の前面には「雪松松東来莱鄭公ヨセフ寅燮博士の墓」と彫られており裏面には彼の有名な作品である「山風」が刻まれている。 詩人であり、学者である雪松鄭寅燮は1932年方定煥と共に色一会を組織し、1956年ペンクラブ韓国本部委員長を過ごし1958年中央大から名誉博士学位を受けた。 1974年色一会会長などを過ごし、国民勲章牡丹賞とペンクラブ翻訳賞を受けた。 著書としては韓国文壇論告、世界文学散考、総合弁証法世界文学論、国語音声学研究などがあって、詩集としては<山越えて水越えて>、<星のように雲のように>があり、随筆集は<捨てられない花束>、<考えは波のように>、<日曜放談>等多数がある。

位 置 : 義王市鶴儀洞山11天主教公園墓地内(墓地上側のマリア像の下の方の松の下に位置)

李煕昇博士の生家

一石李煕昇博士は1896年に出生し義王市浦一洞87-13陽地便村に生家がある。 李煕昇博士の本管は全義である。 1932年朝鮮語学会の幹事であり、1957年ソウル大学校文理科大学長として学術院賞を受賞した。 1960年にはソウル市教育委員会功労賞を受賞し、1962年には建国功労勲章を受けた。 1971年には檀国大学校付設東洋学研究所長を歴任した。 1988年には韓国語文教育研究所長、学術院元老会長、社団法人顯正会理事長、財団法人仁村記念会理事長を歴任した。
主要学術著書としては歴代朝鮮文学精華、國語学論攷、国文学研究草、国語学開設などがあり、詩集ではユウガオ、心臓の破片など、随筆集は聾唖冷たい胸、貧乏学者など多数がある。
また「生まれ変わってもこの道を」という要約自叙伝がある。 1948年に歴代国文学全集、1981年に国語大辞典を編薯した。李煕昇博士は1989年に亡くなった。

位 置 : 義王市浦一洞 87-13

肆覲行宮跡地

義王市古川洞272-2番地。古川洞住民センター内に位置している肆覲行宮跡地は、朝鮮王朝の孝行大王と呼ばれる程に親孝行であった22代正祖が父王(父)である思悼世子の陵行をする途中で一時休まれたという場所である。 1760年、思悼世子が温陽温泉に行こうとされた時にここで休んでいかれたことがあったため、親孝行極まりない正祖が楊州の拜峰山にあった父思悼世子の墓を水原の華城に移葬した1789年10月6日に、喪輿がここに到ると、出迎えた老人たちに京畿監司を通して米を分けてやるようにした。この行宮の名を肆覲行宮と呼んだ。
正祖はその後にも数回にかけてこちらに立ち寄り、特に1795年2月10日と15日には母である惠慶宮洪氏とともに立ち寄り、食事もされた。親孝行を実践した正祖の偉大な業績を後世に賛えるために白雲会で記念碑を建て、市ではこの日を記念して10月6日を市民の日に制定した。

位 置 : 義王市古川洞 272-2 古川洞住民センター内